ツイッター中毒者の弁明

さて、タイトルとは関係のなさそうな話から始めるが僕は大阪市立大学文学部に所属している。誤解を恐れずはっきり言うが、ここの授業は面白くない。作品を読むだけ、家で訳してきて当てられたら答えるだけ、説の羅列だけ、そんな授業が結構な数ある(ちなみに課題が楽かと言えば決してそうではない。受験生には大阪市立大学文学部は絶対におすすめしない)。「じゃあなんでお前は文学部にいるんだ」と問われるだろう。これもまとめると一言で終わる。単に本が好きだからである。ではなぜそんな自分なのに授業はつまらなく感じるのか?考えてみた。まず一つは文学という学問領域自体の特性に起因する説、もう一つは大阪市立大学文学部の教員の能力不足が原因説。後者の説は可能性としてはあり得るので一応挙げたが、こう結論づけることになるとお世話になっている先生方に大変失礼なので、前者であることを信じつつ、もう少し考えてみた。文学という学問の特性とは?(自分はまだ学士すら取れてない高卒だし、読書量や頭の良さにおいて特に秀でているわけでもないので、ここから先は今まで以上に話半分で聞いてもらいたい。)趣味として読書を楽しむ人は無数にいるだろう。しかし文学部の本の読み方は一般的にイメージされる本の読み方とは異なる。読書が好きで文学部に入ったはずなのに、テストやレポートに苦しむ人は無数にいる。なぜか?文学部の読書は発見を求めて行われるからだ。産みの苦しみという言葉もある通り、何か新しいものを作り出すことには往々にして苦痛が伴う。しかし苦しむ価値はある。他人から見たら面白さのないしょっぱい結論であっても、先学の説と全く同じであっても、自分なりに文章を解釈し、新たな文章を産み出すことは快感なのだ。

ここでようやく本題に入ろう。

なぜツイッターばかりやってしまうのか?産みの苦しみもクソもなく思いのままに言葉を書き連ねるだけで無能でも新たなものを産み出したような気になれるからである。

おわり